看板を掛けました

≪ 序章 月世界の夜空

第1話 看板を掛けました

 初春の暖かな息吹が草を波立て丘を吹き降ろす。
 優しい風が頬に軽く触れて通り過ぎてゆく。
 なびく髪を片手で抑えながら、入口の上に掛けたばかりの看板を仰ぎ見て、左右に一度ずつ首を傾げてみる。木目も露わな手作り感抜群の木板に赤い塗料で

 イェラの不思議なお店。
 古今東西、科学の奥義を覗いてみませんか。

と書いてみた。強張った項(うなじ)を右手でとんとん叩きながら独り言。
「うん。悪くないわね。こんな看板一つでお客さんが増えるとは思わないけど、まずは見た目が大事なのよ」
 私は勝手に一人納得して、作業に用いた浮遊運搬台を倉庫に運び入れ、赤い煉瓦造りの店へと戻った。扉を開けてまず目に付くのは、宙に浮く大きな球体。白と茶褐色の不規則な横縞模様の中に、赤茶けた渦を巻く大きな斑点がある。この大きな球体の周りを、九つの小さな球がゆっくりと周回している。

 巨大惑星ヤブゴナと、周囲を巡る九つの主衛星の模型。

 要するに地図。模型の下には膝上ぐらいの高さの石の円台が据えられていて、一応これが当店の目玉商品展示台ということになっている。浮いているから下の円台は別に必要ないけれど、他に置くところもないし、今のところ一番見栄えの良い商品なので、取り敢えずここに置いてある。

 何気なく、一番外側を周る小さな球にそっと触れる。
 目の前に衛星地図の画像が浮かび上がる。
 国家名、総人口、主要産業などが羅列されてゆく。
 ヤブゴナ惑星系 第9主衛星モルドコガル。
 コビ・マリタ共和国 国都ブティストクプ エセキの丘29号。
 ここが私の現在の住まいだ。

 肩を竦めて模型から離れる。円台の左右、店の両壁に沿って棚が並び、そこに小ぶりな商品を陳列してある。私は正面奥のカウンターの後ろに回り、椅子に座って頬杖をつき、「はあ」と情けない溜息を一つ。

 本日のお客さんは午前中に一人だけだった。そして彼女は何も買わなかった。この国の人はどうにも保守的で、新しいものに対して警戒心がはたらくみたい。得体の知れないお店の敷居を跨ぐことに躊躇いを感じているような気がする。

 あまりに暇なので、立ち上がって、はたきで棚の埃を払いながら店内を回る。途中、棚と棚の間にある姿見の前で立ち止まる。
 右手の指先を前髪に軽く触れ、左手を腰に添える。
 蔦の浮彫装飾に囲われた鏡面。
 そこに写る自身の立ち姿と向かい合う。
 肩の上でふわりと揺れるウェーブのかかった栗色の髪。その下にある鼻筋の通った顔立ち。水色のチュニックドレスと足首まで届く薄絹を羽織った細身の身体。

 ふふふ。悪くないわね。
「鏡よ、鏡。この月世界で一番美しい女性は誰かしら」
 私は鏡に向かって尋ねてみる。
「それはもちろん、スカヴア皇国のビアリージュ皇女です」
 意に沿わぬ答えが返ってきた。
「二番目は?」
「シャパの四期遣使、マシュカン・シッパウワの娘、ニンバンダですよ」
 私は意地になって、三番目、四番目と尋ね続け、二十七番目に達したところで息切れしたので、訊き方を変えることにした。
「私は月世界で何番目の美女かしら?」
「私は上位百人の記録を日々更新しながら保持していますが、今のところ、あなたがランキングに入った記憶はありませんな」
 鏡は鼻で笑うような口調で言い捨てた。
 私は両拳を強く握り締める。
「リペンダさん、気にすることはありません。あなたも三十路にしては悪くないほうですよ」
「それでお世辞を言ったつもりなの?」
 私はカウンターの傍に置いてある泥棒避けの棒を持ってきて、鏡の前で振りかぶった。
「落ち着いてください、リペンダ様。私を割ってもお店に損害が出るだけです。わかりました、あなたは三十代の女性の中では、断トツの第一位! 栄えある優勝です! おめでとう!」
「いちいち年齢を言うな!」
 今まさに棒を振り下ろそうとしたところ、からんからん、と鈴の音が鳴って戸口が開いた。

 十を一つか二つ過ぎた年頃の女の子二人連れが、敷居の向こうで目を丸くして、棒を上段に構えた私の姿を凝視している。
 私は慌てて棒を下ろして背後に隠し、
「いらっしゃい。どうぞお入りなさいな」
と優しく手招きしてみるけれど、女の子たちは強張った表情で立ち尽くし、お互いの顔を見合わせて同時に頷くと、踵を返して走り去った。
 私はただ呆然とその様子を眺めているだけだった。

 ≫ 第2話「独りの食事、独りの就寝」

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